めっき屋人生写真館
忠ちゃん奮闘記
1940 誕生
1968 寒ぶな釣り
1945 戦時中と爆弾
1968 母のテレビ感電死?
1948 震災とおばんどこ(父の実家)
1950 ご飯たき
1953 父の病気
1950 父の話と思い出
1951 父とグローブ
1962 1回目の養子の話
1954 父の死
1960 お中元 お歳暮の話
1961 ボーナス
1959 松原めっき時代の話
1960 涙のリアカー
1961 なぜ めっき業を
1962 大起工業勤務時代
1963 結婚
1963 新婚旅行
1963 38豪雪福井に帰る
1963 創業初めての売上
1964 中古品
1965 励まし
1965 武田機械の話
1965 お客様とは
1965 早川社長の話
1968 親方来社
1967 初めての借金
1968 母に言った言葉
1969 冬の西瓜
1970 次男の交通事故
1972 福井弁
1973 大きな仕事
1977 勝たなければ意味が無い
1975 電子部品めっきのきっかけ
1980 壊し魔
息子たち
長男・肇の昔話
次男・卓二の昔話
三男・忠幸の昔話
創業当時を語る
早瀬さん(元常務)の昔話
村尾さん(元工場長)の昔話
清川敏部長の昔話
ISO-14001,9001認証取得 ISOへの挑戦 清川 卓二
会長語録  清川 忠
その他
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 忠ちゃん奮闘記 / 1977 勝たなければ意味が無い

 小学校5〜6年生の頃の三男は友達から忠幸君と呼ばれ、愛称は「めっき」と言われていたようである。息子も「めっき」と言われていることが、大変気に入っていたようである。自分からも「めっき、めっき」と言っていた。生徒会長に立候補する時、選挙ポスターに「めっき よろしく」と書いてあった記憶がある。また作文などにも、ところどころ「めっき」の字が書いてあった。
 私はその様子を見て気を良くしたものであった。
 小学校から高校時代を通して野球をやっていた。小学、中学時代は強いチームに属していた。福井市は勿論富山県、名古屋にある中日球場等の県内外の試合に参加していた。私も親ばかであろうか、ビデオを買い飛び回ったものである。その当時のビデオカメラは図体も大きく大変重いものであった。それを担ぎ試合がある度に出かけて行ったものである。

  高校時代の高志高校はあまり強いチームでなかった。県大会の試合が福井球場であったが、ご多分にもれず負けてしまった。その試合で息子はホームランを打った。試合後記者会見があり、記者から「清川君、ホームランを打ちましたね、ご感想は」と聞かれ、「いくらホームランを打っても、野球は勝たなければ意味が無いです」と応えていたことを記憶している。



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