
|
忠ちゃん奮闘記 / 1962 一回目の養子の話 |
 |
 |
私は農家の次男坊として和田中に生まれた。
田畑で生計を立てていた。今と違い道具はクワ、カマ、スキ、肥料は人糞で農業が出来た時代である。機械も要らず家族5〜6人は十分生活出来たものである。
秋になると大根や野菜を町へ売りに行き臨時収入を得ていた。帰りには肥料となる人糞をもらって荷車に乗せて帰った時代である。
近所の親戚に子供がいない為、養子に来てほしいと言うことで、親同志で約束していたそうである。中学を卒業する時期になると農林高校へ行くように言ってきた。その時は養子に行って農業をするつもりでいた。別に抵抗感も無かった。今でも農林高校を出たことを後悔していない。
それどころか大いにプラスに成った。
商売を始めた頃営業に行った時、話題が無くなると野菜の作り方、樹木の名前や動物の育て方等を話すとびっくりして「清川さん なんでも知っているにやの」と感心がられた。大いに助かったものである。
農林高校以外の学校に行くといらん智恵がつき、養子に来なくなるのではと心配して農林高校を勧めたと思う。就職も福井精練(現在セイレン)の願書を持ってきて、この会社に勤めてほしいと言われ就職した。
しかし自分はこれで良いのかと思うようになったのは、この頃から自分で何かやろうと思うようになって来たのである。福井精練で精練槽に落ちる事故が起きた。下半身に大火傷を負ったが、医学が発達した為であろうか幸いにも火傷の跡は残っていない。日の出町にある岩井病院に入院することになった。いろいろな人がお見舞いに来て下さった。人の中に「高校位出たかって、課長はおろか係長にも成れん、班長までや」と言われた。それが切掛けとなり、市内で一番少ない仕事を選んだ。これがめっきとの関わりである。この時期より養子の行き先の人はもう養子に来てくれないと思ったそうです。
国語と日本史は学生の頃から嫌いであった。変われば変わるもので今は日本史大好き人間に成っている。理科(化学、物理)は好きで、小学生、中学生の頃学校で良くめっきの実験をしたが、残りの薬品を家に持ち帰り、いろいろな物に銅めっきを付けて家族の人に怒られた記憶がある。
今思えばやはりめっきには縁があったのである。めっきほど面白い仕事は無い。ぞっこん惚れ込んでいる。
|
|