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忠ちゃん奮闘記 / 1965 武田機械の話 |
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商売を始めた頃、仕事を求めて上北野町にある武田機械に日参した。その当時の工場長は間鍋さんと記憶している。その時もご多分にもれずなかなか会ってもらえなかったのである。
その当時のレースの機械製造は福井では山仙機械と武田機械の2社であった。なぜか武田機械に的を絞った。私の所から近かったからだと思う。
コ型(品名は覚えていない)のスライド部分の部品に硬質クロームをする仕事が最初であった。その次の仕事は扇と言うアルミニュム製の部品を化学研磨する仕事であった。昭和39年〜40年頃から本格的に硬質クロームめっきをするようになった。その他にはレース機のフレームとフレームを継ぐシャフトがあった。直径が40mm〜50mmで長さが3M〜4.5M位の鉄のシャフトをニッケルめっき、アルカリ性酸化皮膜を施していた。
和田の問屋町が出来る3〜4年前のことである。
当時は中古の1.5トン車(マツダB-1500)を持ち合わせていた。道路はアスフアルトをされている所は少なく悪かった。1.5トン車に2〜3トンの物を載せてその上長尺の為前後に大きくはみ出して運搬した。会社に着くまでに悪路で揺れ製品を道に落としたり、カーブを曲がりきれずトラックもろともひっくり返ったことが何度もあった。めっきのタンクの長さは3メトール50センチのものを使用していた。長いタンクを買うお金も無かった。
そこで3〜40KGもあるシャフトを家内と2人で半分ずつひっくり返してめっきをしていた。そういう状態であったが、お客様の納期を守ることにより信頼していただき、だんだん仕事も増えて来た。
*武田機械は、現在の日本マイヤーである。
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