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忠ちゃん奮闘記 / 1950 父の話と想い出 |
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私の子供の頃こんな話を聞いたことがある。
40〜50年前までは町内のおおやけ衆か、元村で育った者しか町内会長にはなれなかった。いくら力があり町内に貢献してもよそ者はよそ者である。父は下河北より婿養子にきたのである。母は二人姉妹の次女である。母まつのは
父堺と結婚し父は清川家の田畑を守りその上何がしかの財産を積み上げたと思う。かなり頑固であるが、頑張りやでもあった。
頑固と言えばいろいろあった。
秋の取り入れ時が済むと必ず家出をする。一週間ぐらいしてから私が「おとうちゃんどうしたの?」と尋ねたことがある。母はどのような返事をしたかは、私には記憶に無い。一週間程すると一枚の葉書が届いた、するとあたふたと米と下着を持って出かける。
それは父からの便りであった。その頃は電話も無く手紙であった。父と母は温泉で2〜3泊して帰ってきた。
戦災で家が焼失、震災で家がつぶれてもその都度父は家を建てた。自分の山の木を切り出し製材して材料にし、足りない材木は安く建てるために、山から切り出された木材を足羽川の堤防の上で買い取ったと聞いている。
金の無い時は自分で木作りをし、屋根を葺き、こうまいをし、壁を塗って家を建てたりしたこともあった。
お金が貯まれば森下の大工さんや北川の大工さんに建ててもらったこともある。清川家に婿養子に来て財産を減らさずに増やさなければならないと思い、身を粉にして働いたのである。
父は48歳でこの世を去った。私が中学2年生の時であった。
その頃 和田定四郎さんにいろいろと可愛がってくれた。またいろいろな昔話も聞かせてもらった。「堺さんは早よう死んだのう、苦労しなってのう」と云ってくれた。
有り難いことである。
前の話に戻すが、「父に町内会長をやらせたらどうだろうか」と云う話があったそうです。と云うことは一応 和田の人間として認めてもらったのかも知れない。しかし「堺さんは養子やでのう」と云うことで町内会長は出来なかったそうです。父は別に町内会長をしたくなかっただろうと思う。昔は町内会長をするのとしないでは大きな違いがあった思う。もう5年も10年も長生きしていてくれれば、そんな思いをしなくても良かったのではないか。
「堺さんは養子やでのう」の言葉が今でも消えない。
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