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忠ちゃん奮闘記 / 1960 涙のリアカー |
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その当時私のすんでいた町内にはパンパン(オート三輪車)が1台か2台しか無かった。パンパンと言うのは足踏みでエンジンを掛けるとパンパンと言う音がするからである。そんな時代であったので、品物を運ぶ時はリヤカーで運んだ。他にもう1台トヨモータのオートバイがあった。その時代は、バイクはなかなか使わせてくれず、急ぐ時だけオートバイの後ろにリヤカーを付けて運んだ。普通は大型の自転車にリヤカーを付けて運んだ。
ある日私が自転車の後ろにリヤカーを付けて、富永機械の織機のロールを山積みにして、汗だくになりながらリヤカーを引いていた。その光景を見て母は可哀想で涙が出たそうです。声を掛け後ろから押してやろうと思ったが、私のためにはならないと思い、影からじっと見ていたと聞いたことがある。
その当時は道も悪く、舗装も十分されておらず凸凹の道であった。 お客先等に集金に行くと、時には「おまえ めっき錆が出て来たぞ、金は払えんぞ」と言われたこともあった。集金をしない訳にも行かず、もじもじしていると、「今日は持って行け、これからは払わんぞ、良いめっきをして来い」と元気ずけられて帰ったこともあった。
その時代はめっきの薬品が液中にどれだけ入っているのか解らず、指で舐めてみたり、経験とかんで補充していた。膜厚がどれだけ着いているか、計る機械も無かったかんに頼る時代であった。今で言う品質が揃わなかったのである。条件が揃うと揃わないのとでは、錆が来るのも速くて当たり前である。その当時分析装置が無かった訳ではないと思うが、今日のようにどこにでもあると言うものでも無かったと思う。
しかし親方は頑固一徹の人であった。
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