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忠ちゃん奮闘記 / 1961 なぜ めっき業を |
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23歳でめっき業を始めた。23歳と言うことで、母はもとより親戚の人もまだ早すぎると言って反対した。今にして思えば無謀であったと思う。若気の至りであろう。
父は私が中学2年生の時に亡くなっていたので、その時の思いは、人生は短いと感じたものであった。他人から見れば23歳では早すぎる、まだ子供である。
しかし私としては4年間も福井、大阪でめっきの勉強をして来たと言う思いがある。研磨、めっき付け、帳簿付け、客先廻り等に一生懸命であった。独立する為に必要なもの全てを勉強したと思ったからである。世の中はそんなに甘いものではないことは後で分かった。
話は前後するが、福井市内にあった松原めっきのおやじさんと面接をしているうちに、「自分で商売するなら、うちに来い、一生勤め人でいるなら来るな」と言われた。自分で商売をやってみたかったことも事実であるからその話に乗った。
入社して3年位経ったある日、「うちへ来て養子になって後を継いでくれないか」と言うのである。もうそろそろ仕事を任せようと思ったのかも知れない。
私は弟であるので家も無い、工場も無い、しかも金も無い。これが本当の無い無いずくしである。まだ当時は若かったし世間知らずであった。人が引いたレールを走りたく無かった、どうしても自分で独立してやりたいと言う夢、思いが強かったのである。「僕は気ままものですので」と言って養子の話を断ることにした。
これまで私の養子の話は2度ある。親戚より養女を迎えた、この子と一緒になってくれないかと言う話であった。お嬢さんは気立ても良く美人で優しそうな感じで良い人であった。その人が私を気に入っているかは聞かなかった。犬、猫であるまいしお嬢さんに対して失礼な話である。第一印象としては、初めて化粧をしたらしく、ほのかに化粧が着いており、初々しく感じられた。それよりもなによりも自分が独立したいと言う思いが大きかったのである。
もう一度どこかで修業してから独立したいと思っていた。福井市田原町(現在のフエニックスプラザ付近)にめっき片岡と言うめっき工場があった。
当時配達で毎日片岡さんの前を通っていたので道から良く中が見えた。とても奇麗な工場であり、めっきを始めて7〜8年位しか経ってなく、新しく、いろいろなめっきを行っていた。その当時の梨地硬質めっきは、福井県内では片岡さん一社しかなかったと思う。そこで片岡さんに使ってほしいとお願いをしたところ「よし、わかった」と言ってくれた。
現在は鯖江市でめがねのめっきをしておられる。楽隠居されておられる先代の社長の卓二郎さんである。常に目標としてきた人物である。独立してからもいろいろとお世話になった片岡様には、改めてお礼を申し上げたいと思う。
松原めっきと片岡めっきとの話が進まず勤めを断念し、すぐ大阪の東部にある大越工業で修業を始めた。
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