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忠ちゃん奮闘記 / 1962 大起工業勤務時代 |
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大起工業は平野通りにあった。大阪梅田駅の東口より地下鉄に乗り天王寺駅で下車、バスで平野まで行く。当時は平野まで地下鉄が通っていなかった。
日曜日に遊びに行く所は天王寺であった。その当時の天王寺公園はがまの油売りややしの人々がたくさんいた。今ではホームレスと言うがいわゆるルンペンも大勢いた。通天閣下にはストリップ小屋が何軒かあった。杉丸太で作った小屋にむしろをはり営業していたと思う。なにしろ休みともなると、人々が大勢繰り出し、たいした賑わいであった光景が目に浮かぶ。
26〜27年程過ぎて仕事で出かけた時、天王寺駅で降りたことがあった。昔の公園、そしてストリップ小屋はどうなっているかと思い、心を弾ませて駅の構内を出て外を見ると、通天閣は無いではないか。びっくりして直前にある交番で尋ねた。巡査は「通天閣の前に大きな植物園が建ったからです」と言った。通天閣の前には高速道路が走り、公園は近代的な公園に変わりストリップ小屋も面影も無く、周囲の状況はすっかり変わっていた。浦島太郎の心境であった。
大起工業では、工場の一室に工場長と私が寝泊まりをしていた。はっきりとは覚えていないが、社員は20人位の工場であった。社長の家族は、社長夫婦、専務夫婦と2人の可愛いい男女のお孫さんだったような気がする。違っていたらごめんなさい。
朝と夜は社長宅で食事をした。昼食は専務の奥さんが工場まで持ってきて下さった。そのころは住み込みで5〜6人居たと思う。家族的な会社であった。
いまでも懐かしく思い出されるのは、「今日は肉やで」と言うと決まって鯨肉であった。皆は「またクジラかいな」と小言を言っていた。私は、鯨肉は大好きで大変嬉しかった。今では、鯨肉は大変なグルメである。当時の鯨肉は魚屋さんで500Gブロック単位で売っていた。牛肉はそう簡単には口に入らなかった。食べられたとしても切り込み肉といい脂身のいっぱい入った屑肉である。高価のためこういう肉しか口に入らなかった。奥さんとしては若い者にお腹いっぱい食べさせたかったに違いない。心より感謝している。
大起工業の仕事の内容はカドミュムめっき付け真空管内部のカーソードである。クロームめっきは洋傘の骨、卓上鏡のスタンド、アルマイト処理はDXアンテナが主流であった。その他に亜鉛めっきとしては、うば車のキャップなどである。
まずびっくりしたのは、銅めっき液にPR法で電流を流して半光沢をだしていること、ニッケルめっきは光沢めっきをしていたことである。それにアルマイト処理である。さらにいろいろな機械や装置が揃っていた。
その瞬間、福井に帰って、直ぐ独立してもやれると言う自信がついたような気がした。一年足らずであったが、どえらい収穫をしたように思った。工場長の漆崎定一さんに感謝申しあげたい。社長、専務、工場長の紹介で中古の機械等もスクラップ価格で仕入れることが出来た。大阪に来なければ、こんなチャンスはなかったと思う。あれから皆さんとは会っていない。懐かしい。チャンスがあれば会ってお礼を言いたい。
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