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忠ちゃん奮闘記 / 1969 冬の西瓜 |
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昭和44年3月に母は亡くなった。商売を始めて6年目のことであった。
昭和44年頃と云うと小玉の冬の西瓜は今とは違いおいそれと口に入るものではなかった。だるま屋の東隣のフルーツ梅田にしかなかった。今はどこのスーパーマーケットに行っても、2〜3百円も出せば、おいしいすいかが買える。今から28年前には季節外れのすいかは小さいもので5〜6千円、ちょっと大きいと8千円ぐらいしていた。現在の金額に置換えると大変なものであった。多分、当時の高卒の初任給が1万2〜3円だったと記憶している。
母は日赤病院に入院していたが、体は衰弱し何も食べられない状態であった。母に「おっかちゃん何か食べたい物はないか」と尋ねるとしばらく考え込んで「うん、すいかなら食べてみたい」と言い出したのである。一瞬どこに売っているのだろうと頭をよぎった。「うん分かった、分かった」と云って見たものの、駅前で探せば何とかなると思い探し歩いた。あるにはあったが、余りにも値段が高いのでびっくりした。庶民の口にするものでないと思ったが、「親の望みなら借金をしてでも」と云う気持ちで買い求め、病院にとって返した。母の口にスプーンで運ぶたびに、「おいしい、おいしい」と舌づつみを打っていた。日頃は体がつらかったのであろう、こんな笑顔が見られるのなら毎日でもと思ったものである。1週間程すると、またスイカを買いに走った。一ヶ月半から二ヶ月程続いた。あえなく母は亡くなった。何か親孝行したような気がする。しかし一番生活の苦しい時期でもあったことも事実である。その頃母の看病に日の内は兄嫁と家内が交代で看病し、夜になると兄と私で看病したものである。大分足が病めるのか、良く足を揉んでくれといった。足を毎日揉んでいるとやせ細っていくのが感じられた。
頭に浮かんできたのが「老ショウ不ジョウのさかいなれば…」であった。人間ははかないものである。
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