めっき屋人生写真館
忠ちゃん奮闘記
1940 誕生
1968 寒ぶな釣り
1945 戦時中と爆弾
1968 母のテレビ感電死?
1948 震災とおばんどこ(父の実家)
1950 ご飯たき
1953 父の病気
1950 父の話と思い出
1951 父とグローブ
1962 1回目の養子の話
1954 父の死
1960 お中元 お歳暮の話
1961 ボーナス
1959 松原めっき時代の話
1960 涙のリアカー
1961 なぜ めっき業を
1962 大起工業勤務時代
1963 結婚
1963 新婚旅行
1963 38豪雪福井に帰る
1963 創業初めての売上
1964 中古品
1965 励まし
1965 武田機械の話
1965 お客様とは
1965 早川社長の話
1968 親方来社
1967 初めての借金
1968 母に言った言葉
1969 冬の西瓜
1970 次男の交通事故
1972 福井弁
1973 大きな仕事
1977 勝たなければ意味が無い
1975 電子部品めっきのきっかけ
1980 壊し魔
息子たち
長男・肇の昔話
次男・卓二の昔話
三男・忠幸の昔話
創業当時を語る
早瀬さん(元常務)の昔話
村尾さん(元工場長)の昔話
清川敏部長の昔話
ISO-14001,9001認証取得 ISOへの挑戦 清川 卓二
会長語録  清川 忠
その他
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 忠ちゃん奮闘記 / 1970 次男の交通事故

 和田の問屋センターの造成工事が始まった頃である。毎日何十台のダンプカーが私の家の前を走っていた。
当時次男の卓二は3歳であった。ちょうど昼時で家内は食事の後片付けをしていた頃である。小走りに走る音とあいまって「ガラガラピシャン」と玄関の戸が開く音がした。すると家内の「あー」と言う大きな声が聞こえた。玄関から道路までは、1メートルから1メートル50センチの間隔であった。先に述べたように、ひっきりなしにダンプカーが走っていたので、一瞬これは大変なことになると直感的に思った。
 2〜3秒経ったか経たないうちに、ダンプカーの急ブレーキの音が聞こえた。いつの間にか私は外に出ていた。後輪で足が引きずられて行くのが見えた。どういう気持ちで車まで走って行ったことだろう。泣き声が聞こえたので、命は助かったと思い一安心した。私は卓二を抱き、引きずられて擦り減った足をしっかりと握り締めて、家内の運転する車で済生会病院に担ぎ込んだ。後遺症として両足とも親指を含めて指が2〜3本しか残っていない。思い出しただけでもぞっとする。幸いにもびっこを引くこともなくスクスクと育ってくれた。

 私には言わなかったが、学校ではからかわれたことも有ったことだろう。それを乗り越えて道も外れず一人前に育ってくれた。いまでは2人の親である。



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