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忠ちゃん奮闘記 / 1972 福井弁 |
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昭和47年頃ちょうど硬質アルマイを始めた頃である。
現在の株式会社富永機械でビールやジュースを作る機械のシュト部分に硬質アルマイトをしてほしいと依頼が富永常務さんより持ち込まれてきた。鋳物合金であったため経験が無かったので試験的に処理をして見たが液中で溶けて無くなってしまったのである。
受けたからには出来ませんとは云いたくなかった。
東京の表面処理研究所で技術を教えてもらうことにした。ライトバンで出かけ10時間以上かかったと思う。その日の東京での話である。東京に朝早く着き過ぎてしまった。今みたいにコンビニもサウナも無く、24時間営業して朝食をとるところが無かった。多分一品料理屋かおでん屋か定かでではないが、玄関の掃き掃除をしているおばさんを見つけ朝飯を食べさしてほしいと頼み込んだ。初めは「内は11時半から」といわれたのであるが、何か気になったのであろう。しばらく考え込んで、かわいそうと思ったのであろう。「ご飯炊くまで待ってや」と云って40〜50分してから、暖かいご飯と味噌汁と漬物を出してくれた。多分朝8時頃だったと思う。
食事の間、おばさんと話しをしているうちに、私の使う福井弁はちんぷんかんぷん分からなかったそうである。このまま突き放せばどこかで野たれ死してしまうかも知れないと思ったそうである。またどこの山から出て来たのかと思ったそうである。東京の人にとって見れば宇宙人と会話をしているような気がしたのであろう。それ以来福井弁は大事にしている。
誰が見ず知らずの人にご飯まで炊いて食べさせてくれる人がいるでしょうか。今でも感謝している。
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