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忠ちゃん奮闘記 / 1959 松原めっき時代の話 |
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松原めっきは廃業しましたが当時福井大仏の西の方角にあった。町名は花月新町である。
松原めっきの前には加藤さんと言う米屋さん、南隣には岩堀さんと言う畳屋さんがあった。最近は通うっていないのでわからないが、現在もあるはずである。
松原めっきは道路の前に住宅があり、住宅の北側の一間程の道を奥に入ると工場があった。当時はまだ木造造りであった。
天井の桁の上に直径7〜80センチメートル位のプーリに幅7〜8センチメートルのベルトを掛けて、そのベルトに連動させて研磨機を動かしたり、発電機を動かしたりしていた。モーターに電気を入れると工場ごと「ブルブル」と揺れその後はガラス窓が小刻みに振動した。
機業場であれ鉄工場であれ、戦後急いで建てたため、どこもこのような工場が多かったと思う。
めっき槽にしても厚さ5〜10センチメートルもあるようなひのきの材木で長槽を造り、酸洗いやめっきに使用していた。今日みたいにステンレスや塩化ビニールが無い時代である。
松原めっきの親方は戦前に京都でめっきを習い、軍需品のめっきをしていたようである。当時はまだMGの発電機で仕事をしていた。クロームめっきには逆電の出来るベルトローの整流器を使用していた。
私が勤めていた頃は、親方、奥さん、養子さんと私と4人で仕事をしていた。大変だった記憶がある。昼食のことである。「おい、忠 明日より弁当の御飯を持ってこなくてもいいぞ」と言われた。有り難い話である。母は毎日毎日弁当を作るのは大変であったとと思う。「有り難う御座います」と言った。
往生したのは大根煮染めの件である。煮染めが出てくるようになると、覚悟をしなければならないからである。と言うのは来る日も来る日も八升鍋で大根煮染めを炊き直しをして出てくるからである。一週間分位まとめて作るのである。そうなると飽きてくる。
最初は大根煮染めと言う料理であったが、その内に餌と思われてくる。親方は明治生まれの人でしたので、それは当たり前の食事であり、私がわがままであったのかも解らない気がする。
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