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忠ちゃん奮闘記 / 1948 震災とおばんどこ(父の実家) |
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父の実家は下文殊の下河北である。子供の頃、父と一緒にお盆や正月になると良くおばばんどこへ行った。家中の人が「忠ちゃん、忠ちゃん」と良く可愛がってもらった。甘いスイカやうり等を楽しみにしていたものである。
子供の頃、和田中より下河北のおばんどこまで歩いて行った。
板垣橋より行くと一間幅の道の両側には長いススキが生えていた。暗くなると恐かった記憶がある。
稲津橋から行くと現在の足羽1中学、変電所を通り抜けた。恐くはなかったがかなり長い時間がかかったような気がする。
行った日にはいろいろなものを持って帰ると言って欅の中柱の際に寄せておいたが、帰る時になるとすっかり忘れて持って帰らなかったそうである。家に帰ってから母にもう一晩泊りたかったと駄々をこねた事がある。すると、母は「一晩しか泊らないから大事にしてくれる。何日も泊るとそんなに大事にしてくれない」と言った。それ以来2晩泊るとは言わなかった。
震災で家がつぶれ、それで復旧するまで子供は邪魔になる為、おばばんどこに預けられた。預かるのはいいが、寝小便はするわ、家中をかかって歩くは、外では悪戯はするはどうしょうも無かったそうです。数ヶ月が過ぎた頃おばちゃんに連れられて家に帰された。今思うと大変な餓鬼大将であった記憶がある。
焼け跡から屋根かわらに着いている銅線等を友達と近所中を廻って集めて屑やさんに売っていた記憶がある。
皆さんは知らないと思うが、銅線(赤がね)の次に高値だったのが、ふくりん(絹織物)であった。手触りが違っていた。ふくりんの見分け方は繊維にマッチで火を付けると糸の先が黒く丸くなれば、「これはほんまものや」と言われた記憶がある。
今でも生地を手にすると糸を燃やしてみる習慣がある。
倒壊した家1
倒壊した家2
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