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創業当時を語る 早瀬さん(元常務)の昔話 / 56豪雪の頃 |
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忘れもしない昭和56年1月の豪雪の時である。降り続く雪で毎日が屋根の雪下ろしで生産に支障が出た程であった。
昼は雪下ろしをし、夜は生産という日が幾日かあった。荷物の入出荷にも支障がでた。国道よりトラックが入れず社員総出で道路の雪掻きをした。50センチメートル位づつ雪掻きをしながら車を移動させ、長時間かけて工場に入庫させた。また出荷時には生産が遅れ、通常便では間に合わず深夜便に積み込んだ。降り積る雪の中、工場より国道まで運んでトラックに積み込んだが、真夜中の2時過ぎまで掛かった。寒く凍えそうな夜であったが、みんな汗だくになったものだ。その年を境に年々降雪量が少なくなって来たように思う。
それから1年後、客先である大同工業の方で我社と同様の処理ライン導入の話しが持ち上がっていた。増産対応とのことであったので我社への影響を考えると不安は募った。
その頃は金属バットやテニスラケットのアルマイト着色の話しがあり、オートバイリムの方を少々減らして、そちらの方を併合することとし、以前より楽器ドラム枠のめっきで取引のあった新家工業株式会社様から自転車アルミリムのアルマイト加工の依頼があり第2号ラインをそちらの方に転用することになった。
話しはさかのぼるがリム生産と前後してリースパイプなるものを開発した。それは織機の機織りの糸に二本一組で糸をクロスさせテンションを掛け糸を上下する役目をするものである。従来は女子竹を乾燥させ磨きを掛けたものを使用していたが、女子竹の資源が不足しかけていた為開発した。アルミパイプに硬質アルマイトを施したもので表面硬度450〜500ビッカースという硬い物、「アルミがこんなかとうなるんけの」と関係筋の皆さんが驚いたものでした。
当時はまだ硬質アルマイトの技術は日も浅く、一宮市の焼野と言う所で日本車両の仕事をしていた、社名は三栄軽金属と言ったようにも思うがはっきり覚えていない、そのアルマイト加工会社にアルミ素材を持ち込んでは装置や手法を知らぬ顔で見て帰り、実験を繰り返した。そのようなことを3〜4回繰り返すうちに、我社においても何とか本物が出来るようになった。
金沢市の織機メーカーの津田駒工業様から「機織りの準備機械のロール類を軽いアルミに代えたいがそんな大きな物でも加工出来るのか」と当社に照会があった。早速同社に出向き機能性硬質等サンプル持参で説明した。担当者や課長さんの気に入りようが何とも言えない良い気持ちであった。数日後試行品が入荷して来た時は、失敗は許されないという気持ちで、心が引き締る思いがした。なにしろそのロールは一本十数万円もすると聞かされていたからである。
その後硬質アルマイトは機械の部品等に広く使用されるようになり、自転車用のリム、特にマウンテンバイク等にも多く使用された。2交代で生産した、ピーク時には日曜を返上した頑張ったものだ。現在では、利用範囲は更に広範囲になってきている。当時近県での硬質アルマイト加工は我社のみであった。昭和53年夏全自動クロムメッキ装置を導入した。これは大同工業様のチエーンの連結ピンクロムメッキ用で大変小さくて冶具または冶具付けの考案に苦労した記憶がある。これが我社の第4号の全自動装置であった。連結ピンは続かなかったが、加賀市村田製作所様のドラム他、数点の部品の処理が長く続いた。
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