今から60年前、私と家内で「清川メッキ工業所」として創業しました。昭和38年の春、「38豪雪」の年でありました。土地70坪に中古の自動車修理工場を7万円で購入し、鉄板でタンクを作り、酸に耐えるためアスファルトを溶かしタンク内部に塗り、酸洗い用またはめっきタンクとして使用していました。今日のように塩ビ張りのタンクはなかったからです。発電機、バフレース台、機械はすべて中古で大阪にて購入しました。めっき液を温めるためにこれもまた中古の石油バーナーを使用していました。使いすぎてモーターが焼けると何度も巻き直し使用しました。二人で創業したため、午前中は営業、昼過ぎから夜遅くまでバフ、研磨、電気めっき、そして仕上げ、光沢を出してお客様へ納品しました。60年前はまだ、亜鉛めっきもちろん、銅めっき、ニッケルめっきに至るまでめっきの光沢材は開発されていませんでした。また、めっき液を温めるのを石英ヒーター、チタンヒーターといった耐酸性のものはありませんでした。めっき液の濃度を測るのもめっきの付き具合で判断していました。いわゆる勘であります。
数年後、大阪の大起工業(めっき業)へ修行に行ってみると、今日ほどではないが光沢材があり、液温も石英ヒーター、ステンレスヒーターが使用され、もちろんめっき液分析も行われていました。めっき用のセレン整流器は、この頃福井にはなくほとんどのめっき屋さんはベルトローの発電機、MGの発電機を使用していました。
大阪の大起工業での修行は1年ほどであったが、5年~10年も修行していたほどの収穫があったように思います。めっき治具にしても見るもの見るものが進んでおり、製品によって治具が作られていました。福井ではその頃、治具類ではすべて兼用でした。大阪で修行しためっき工場は現在のパナソニック株式会社の下請け会社でした。(昔は松下電器製作所、その後ナショナル電器)
その松下電器製作所のアイロン台を一手に引き受けて銅、ニッケル、クロームめっきをしていました。1日2,000枚から3,000枚ほどと記憶しています。
その他DXアンテナ(アルマイト処理)、真空管用のカソード(カドミウムめっき)、洋傘の骨(銅、ニッケル、クローム、亜鉛めっき)、乳母車のキャップ(亜鉛めっき)をしていました。DXアンテナとは俗に言う、兎の耳型です。
清川メッキ工業所として創業時に始めた仕事は、織機の錆びた部品を研磨し、再生してクロームめっきをしていました。他には、錆びた自動車のバンパーや錆びた自転車のハンドル、リムがあります。
新しいものとしては、織機用のロールシャフト、パイプ類や機械部品がありました。
次に始めたのが、オートバイのアルミリムです。毎日4トン車で2往復をするようになり始めはうまくいかず、毎日試行錯誤し夜を明かした日もありました。研究開発を行い、半年経って光が見えてきました。自動めっき装置を作るまでには3年を費やしました。
昭和40年頃から、電子部品と言われる角チップのめっきの依頼があり、これもまた長い年月をかけて、米粒くらいの大きさの製品の両端にめっきをするまでに成功しました。これが現在ではナノめっきサイズまでめっきできるようになりました。
半導体へのめっきが日の目を見るまでには十数年の年月をかけ研究開発した結果、今日があります。創業より60年間、「研究開発型企業」として邁進してきました。
一歩踏み出せば道となる
できないとは言わない
まずはやってみること
「自由なる創意の結果が、大いなる未来を拓く」
のスローガンを基に、80、100年企業を目指したいと思います。